二 - 1
るごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない。彼は性の悪い牡蠣(かき)のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を開(ひら)いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような面構(つらがまえ)をしているのはちょっとおかしい。達観しない証拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく今年は征露の第二年目だから大方熊の画(え)だろうなどと気の知れぬことをいってすましているのでもわかる。
吾輩が主人の膝(ひざ)の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵端書(えはがき)を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五疋(ひき)ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを躍(おど)っている。その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の側(わき)に書を読むや躍(おど)るや猫の春一日(はるひとひ)という俳句さえ認(したた)められてある。これは主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂濶(うかつ)な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を捻(ひね)って、はてな今年は猫の年かなと独言(ひとりごと)を言った。吾輩がこれほど有名になったのを未(ま)だ気が着かずにいると見える。
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、傍(かたわ)らに乍恐縮(きょうしゅくながら)かの猫へも宜(よろ)しく御伝声(ごでんせい)奉願上候(ねがいあげたてまつりそろ)とある。いかに迂遠(うえん)な主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目(しんめんぼく)を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。