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二 - 4
るほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際(さい)だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極(き)め付けたので主人は黙然(もくねん)としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝雑煮(ぞうに)をあんなにたくさん食ったのも昨夜(ゆうべ)寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。

    吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒のように横丁の肴屋(さかなや)まで遠征をする気力はないし、新道(しんみち)の二絃琴(にげんきん)の師匠の所(とこ)の三毛(みけ)のように贅沢(ぜいたく)は無論云える身分でない。従って存外嫌(きらい)は少ない方だ。小供の食いこぼした麺麭(パン)も食うし、餅菓子の餡(あん)もなめる。香(こう)の物(もの)はすこぶるまずいが経験のため沢庵(たくあん)を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌(いや)だ、これは嫌だと云うのは贅沢(ぜいたく)な我儘で到底教師の家(うち)にいる猫などの口にすべきところでない。主人の話しによると仏蘭西(フランス)にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢(ぜいたく)屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固(もと)より何(なんに)も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼(か)ねて自分の苦心している名を目付(めつけ)ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行(ある)いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗(むやみ)にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理(パリ)を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍(う)って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分(ぶん)のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意(わざ)とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日(いちんち)巴理(パリ)を探険しなくてはならぬようでは随分手数(てすう)のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的(かきてき)主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。だから今雑煮(ぞうに)が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い剰(あま)した雑煮がもしや台所に残
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