二 - 15
うにんすい)でも飲めば四時前にはきっと癒(なお)るに極(きま)っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外(はず)れそうになって来る。細君は恨(うら)めしい顔付をして、到底(とうてい)いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇(はげ)しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行(りこう)する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。情(なさ)けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に有為転変(ういてんぺん)の理、生者必滅(しょうじゃひつめつ)の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫(おっと)の妻(つま)に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は速(すみや)かに細君を書斎へ呼んだよ。呼んで御前は女だけれども many a slip t the lip と云う西洋の諺(ことわざ)くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜(よろ)しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校(ヤソがっこう)の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕(けんまく)なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻(さい)を愛する至情から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒(おかん)と眩暈(めまい)で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急(せ)き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪(わ)るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよぐらぐらする。妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌(もろはだ)を脱いで御化粧をして、箪笥(たんす)から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと云う風情(ふぜい)で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の妻(さい)を褒(ほ)めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で磨(みが)き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬(くろちりめん)の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津大掾(せっつだいじょう)を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺(なが)めて、手を握って、胸を敲(たた)いて背を撫(な)でて、目縁(まぶち)を引っ繰り返して、頭蓋骨(ずがいこつ)をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑(け