三 - 1
して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁(はな)を垂らすのは、ちと酷(こく)だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線(へいこうせん)を描(か)く、線がほかの行(ぎょう)まで食(は)み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭(ひげ)を捻(ひね)って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕(けんまく)で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君(さいくん)が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐(す)わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼(どら)を叩(たた)くような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺(なが)めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭(パン)を御食(おた)べになったり、ジャムを御舐(おな)めになるものですから」「元来ジャムは幾缶(いくかん)舐めたのかい」「今月は八つ入(い)りましたよ」「八つ?そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体(てい)で、ふっと吹いて見る。粘着力(ねんちゃくりょく)が強いので決して飛ばない。「いやに頑固(がんこ)だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大(おおい)に不平な気色(けしき)を両頬に漲(みなぎ)らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交(まじ)る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開(あ)くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪(しらが)だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入(はい)る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士(てんねんこじ)に取り懸(かか)る。