七 - 6
間に上がれば、もう化物ではない。普通の人類の生息(せいそく)する娑婆(しゃば)へ出たのだ、文明に必要なる着物をきるのだ。従って人間らしい行動をとらなければならんはずである。今主人が踏んでいるところは敷居である。流しと板の間の境にある敷居の上であって、当人はこれから歓言愉色(かんげんゆしょく)、円転滑脱(えんてんかつだつ)の世界に逆戻りをしようと云う間際(まぎわ)である。その間際ですらかくのごとく頑固(がんこ)であるなら、この頑固は本人にとって牢(ろう)として抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容易に矯正(きょうせい)する事は出来まい。この病気を癒(なお)す方法は愚考によるとただ一つある。校長に依頼して免職して貰う事即(すなわ)ちこれなり。免職になれば融通の利(き)かぬ主人の事だからきっと路頭に迷うに極(きま)ってる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌(だいきらい)である。死なない程度において病気と云う一種の贅沢(ぜいたく)がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと嚇(おど)かせば臆病なる主人の事だからびりびりと悸(ふる)え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。一飯(いっぱん)君恩を重んずと云う詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと云う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を怠(おこ)たっていると、突然白い湯槽(ゆぶね)の方面に向って口々に罵(ののし)る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴口(ざくろぐち)に一寸(いっすん)の余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から初秋(はつあき)の日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立て籠(こ)める。かの化物の犇(ひしめ)く様(さま)がその間から朦朧(もうろう)と見える。熱い熱いと云う声が吾輩の耳を貫(つら)ぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互に畳(かさ)なりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内に漲(みなぎ)らす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声と云うのみで、ほかには何の役にも立たない声である。吾輩は茫然(ぼうぜん)としてこの光景に魅入(みい)られたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーと云う声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬと云う点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返している群(むれ)の中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼の身(み)の丈(たけ)を見ると他(ほか)の先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔から髯(ひげ)が生(は)えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを反(そ)り返して、日盛りに破(わ)れ鐘(がね)をつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々(ふんぷん)と縺(もつ)れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁(とうりょう)だ。と思って見ていると湯槽(ゆぶね)の後(うし)ろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらに