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八 - 2
でも構わないから抛(な)げて見たいと至極危険な了見を抱(いだ)いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節(かつぶし)の一折(ひとおり)も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考(かんがえ)では奥山(おくやま)の猿(さる)と、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体(もったい)ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖(くさり)で繋(つな)がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き掻(か)かれる気遣(きづかい)はない。教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守(おも)りは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうには至極(しごく)適当で、至極安直(あんちょく)で、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くする所以(ゆえん)で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気に充(み)ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分(じっぷん)の休暇中持(も)てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば主人は自(おのず)からからかわれ、生徒は自からからかう、誰から云わしても毫(ごう)も無理のないところである。それを怒(おこ)る主人は野暮(やぼ)の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。

    諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が潜(くぐ)られんために、わざわざ職人を入れて結(ゆ)い繞(めぐ)らせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には潜(くぐ)れそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国(しんこく)の奇術師張世尊(ちょうせいそん)その人といえどもむずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理には大(おおい)なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。呑舟(どんしゅう)の魚をも洩(も)らすべき大穴がある。彼は垣は踰(こ)ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と云う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ち崩(くず)して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴を潜(くぐ)り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の虞(おそれ)は決してないと速定(そくてい)してしまったのである。なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り
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