八 - 12
山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家(ぜんけ)でも儒家(じゅか)でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日(らくじつ)を回(めぐ)らす事も、加茂川を逆(さか)に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚(ぐ)な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細(しさい)なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬(き)り付けられた時電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬るとか、何とか洒落(しゃ)れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃(たの)む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」
主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ這入(はい)って書物も読まずに何か考えていた。
鈴木の藤(とう)さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言(じょごん)したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれを択(えら)ぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないに極(き)まっている。