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と押しつける。吸い取られた鼻の膏(あぶら)が丸(ま)るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから主人は鼻の膏を塗抹(とまつ)した指頭(しとう)を転じてぐいと右眼(うがん)の下瞼(したまぶた)を裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退(の)けた。あばたを研究しているのか、鏡と睨(にら)め競(くら)をしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻(こんにゃく)問答的(もんどうてき)に解釈してやれば主人は見性自覚(けんしょうじかく)の方便(ほうべん)としてかように鏡を相手にいろいろな仕草(しぐさ)を演じているのかも知れない。すべて人間の研究と云うものは自己を研究するのである。天地と云い山川(さんせん)と云い日月(じつげつ)と云い星辰(せいしん)と云うも皆自己の異名(いみょう)に過ぎぬ。自己を措(お)いて他に研究すべき事項は誰人(たれびと)にも見出(みいだ)し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。朝(あした)に法を聴き、夕(ゆうべ)に道を聴き、梧前灯下(ごぜんとうか)に書巻を手にするのは皆この自証(じしょう)を挑撥(ちょうはつ)するの方便(ほうべん)の具(ぐ)に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至(ないし)は五車(ごしゃ)にあまる蠧紙堆裏(としたいり)に自己が存在する所以(ゆえん)がない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は無霊(むれい)より優るかも知れない。影を追えば本体に逢着(ほうちゃく)する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で主人が鏡をひねくっているなら大分(だいぶ)話せる男だ。エピクテタスなどを鵜呑(うのみ)にして学者ぶるよりも遥(はる)かにましだと思う。