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から主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家(どうけ)で道徳経を尊敬し、儒家(じゅか)で易経(えききょう)を尊敬し、禅家(ぜんけ)で臨済録(りんざいろく)を尊敬すると一般で全く分らんからである。但(ただ)し全然分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人は恭(うやうや)しく八分体(はっぷんたい)の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手(ふところで)をして冥想(めいそう)に沈んでいる。
ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま毫(ごう)も動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は先刻(さっき)洗濯(せんたく)石鹸(シャボン)を買いに出た。細君は憚(はばか)りである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱(くつぬぎ)から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと襖(ふすま)を二三度あけたり閉(た)てたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「おい冗談(じょうだん)じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「おや君か」
「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで空家(あきや)のようじゃないか」
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れくらいは云えるだろう」
「云えん事もないさ」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養を力(つと)めているんだもの」
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと云うんだから」
「誰だい」
「誰でもいいから立ちたまえ」