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十 - 4
逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握(にぎ)り拳(こぶし)をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。

    このあくびがまた鯨(くじら)の遠吠(とおぼえ)のようにすこぶる変調を極(きわ)めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団(ふとん)をまくって夜着(よぎ)を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭(てぬぐい)を肩へかけて、茶の間へ出御(しゅつぎょ)になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うと欅(けやき)の如輪木(じょりんもく)か、銅(あか)の総落(そうおと)しで、洗髪(あらいがみ)の姉御が立膝で、長煙管(ながぎせる)を黒柿(くろがき)の縁(ふち)へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥(くしゃみ)先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人(しろうと)には見当(けんとう)のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上(しんしょう)なのだが、この代物(しろもの)は欅か桜か桐(きり)か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾(ふきん)をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事夥(おびただ)しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚(おぼえ)はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺(ただ)して見ると、何だかその辺が曖昧(あいまい)である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠(かさ)に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙(くちばし)を容(い)るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
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