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十 - 14
を歴然と三つまで印(いん)しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏(か)しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく控(ひか)えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭(いがぐりあたま)のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙(きょうけん)の君子、盛徳の長者(ちょうしゃ)であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず傍(はた)から見ると大分(だいぶ)おかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束(かんそく)する力を具(そな)えているかと思うと、憐れにもあるが滑稽(こっけい)でもある。こうやって一人ずつ相対(あいたい)になると、いかに愚 (ぐがい)なる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。塵(ちり)積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢(たぜい)が聚合(しゅうごう)すると侮(あなど)るべからざる団体となって、排斥(はいせき)運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支(さしつか)えあるまい。それでなければかように恐れ入ると云わんよりむしろ悄然(しょうぜん)として、自(みずか)ら襖(ふすま)に押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと云って、苟(かりそ)めにも先生と名のつく主人を軽蔑(けいべつ)しようがない。馬鹿に出来る訳がない。
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