十一 - 8
「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、手織木綿(ておりもめん)の綿入の上へ金釦(きんボタン)の制服外套(がいとう)を着て、外套の頭巾(ずきん)をすぽりと被(かぶ)ってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄(おりから)柿落葉の時節で宿から南郷街道(なんごうかいどう)へ出るまでは木(こ)の葉で路が一杯です。一歩(ひとあし)運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺(とうれいじ)の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と云うのは松平家(まつだいらけ)の菩提所(ぼだいしょ)で、庚申山(こうしんやま)の麓(ふもと)にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔(へだた)っていない、すこぶる幽邃(ゆうすい)な梵刹(ぼんせつ)です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違(すじかい)に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇(ハワイ)の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町(たかのだいまち)から市内に這入って、古城町(こじょうまち)を通って、仙石町(せんごくまち)を曲って、喰代町(くいしろちょう)を横に見て、通町(とおりちょう)を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町(おわりちょう)、名古屋町(なごやちょう)、鯱鉾町(しゃちほこちょう)、蒲鉾町(かまぼこちょう)……」
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は金善(かねぜん)即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋(なんじゅう)するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影(ほかげ)にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯(ひ)を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線(きんせん)の一部だけがきらきらと白く眼に映(うつ)ります。……」
「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸(どうき)がして足がふらふらします……」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず馳(か)け込んで、隠袋(かくし)から蝦蟇口(がまぐち)を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心(かんじん)のところだ。滅多(めった)な事をしては失敗する。まあよそうと、際(きわ)どいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵(よい)の口で人が大勢通るんですもの」