十一 - 9
くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう先(せん)を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善(かねぜん)の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫(めぬき)の両替町(りょうがえちょう)もほとんど人通りが絶えて、向(むこう)からくる下駄の音さえ淋(さみ)しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜(くぐ)り戸(と)だけを障子(しょうじ)にしています。私は何となく犬に尾(つ)けられたような心持で、障子をあけて這入(はい)るのに少々薄気味がわるかったです……」
この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と独(ひと)り言(ごと)のように云ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半埋(うず)めてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾(ずきん)を被(かぶ)ったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前にいて、私の顔を覗(のぞ)き込むようにしていた小僧がへえと覚束(おぼつか)ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊(つ)るしてあったのを三四梃一度に卸(おろ)して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います……」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」