村上或“我”在找什么?
全都心满意足地离去。有的说得洋洋自得,有的则怒气冲冲,有的说得头头是道,有的则自始至终不知所云。而说的内容,有的枯燥无味,有的催人泪下,有的半开玩笑信口开河。但我都尽最大努力洗耳恭听。
原因固然不得而知,反正看上去人人都想对一个人、或者对全世界拼命传达什么。这使我联想到被一个挨一个塞进纸壳箱里的猴群。我把这样的猴们一只只从箱里取出,小心拍去灰尘,“呼”一声拍打屁股放归草原。它们的去向我不知道,肯定在哪里嚼着橡树籽什么的,然后一只只死掉——命运是奈何不得的。
見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。……彼らはまるで枯れた井戸に石でも放り込むように僕に向かつて実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった。あるものは気持ち良さそうにしゃべり、あるものは腹を立てながらしゃべった。実に要領良くしゃべつてくれるものもいれば、始めから終わりまでさつばりわけのわからぬといった話もあった。退屈な話があり、涙を誘うもの哀しい話があり、冗談半分の出鳕目があった。それでも僕は能力の許す限り真剣に、彼らの話に耳を傾けた。
理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧にほこりを払レ……尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きつと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であつたのだ。
不难看出,这不长的一段文字里容纳了村上文体几乎所有要素。新颖别致,洗尽铅华,节奏明快,一气流注,而又峰回路转,机警诙谐,曲尽其妙。简约、韵律和幽默联翩而出各呈风姿,日本式抒情和美国风味水乳交融浑然一体。没有川端康成低回缠绵的咏叹,没有三岛由纪夫近乎自恋的执著,没有大江健三郎去而复来的滞重,没有村上龙无法稀释的稠浓——确如村上所说,“日本语性”基本被“冲洗”干净,了无“赘疣”,从而形成了在传统日本文坛看来未尝不可以说是异端的异质性文体——来自日语又背叛日语,是日语又不像日语。而村上作品之所以成为国人阅读视野中一道恒常性迷人风景线,之所以从中学生放学路上偷偷交换的“涉黄”读物跃入主流文坛和学术话语,一个重要原因,就在于其文体的异质性。读村上,明显有别于读以往的日本小说及其同时代的日本文学作品,却又和村上师承的欧美文学尤其美国当代文学不尽相同。而作为中文译本,无论行文本身多么纯粹,也并不同于中文原创,不混淆于任何中国作家。近乎王小波的知性,但比王小波多了一分绅士般的从容;近乎王朔的调侃,但比王朔多了都市人的优雅。这就是村上,就是所谓村上文体。
2008年4月15日于窥海斋
时青岛晴空丽日绿柳樱花
值此新版付梓之际,依责任编辑沈维藩先生的建议,新写了这篇“个序”代替原来的“总序”,旨在为深度阅读进一步提供若干背景资料,介绍较新的有关见解,也谈了译者个人一点点肤浅的思考。欢迎读者朋友继续不吝赐教,来信请寄:266071青岛市香港东路23号中国海洋大学外国语学院。