八 - 7
れるのを忘れたばかりである。主人にこれくらいの常識があれば昨日だって飛び出しはしない。逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。女だの、小供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな見境(みさか)いのあるうちは、まだ逆上を以て人に誇るに足らん。主人のごとく相手にならぬ中学一年生を生捕(いけど)って戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りは出来ないのである。可哀(かわい)そうなのは捕虜である。単に上級生の命令によって玉拾いなる雑兵(ぞうひょう)の役を勤めたるところ、運わるく非常識の敵将、逆上の天才に追い詰められて、垣越える間(ま)もあらばこそ、庭前に引き据(す)えられた。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ている訳に行かない。我も我もと四つ目垣を乗りこして木戸口から庭中に乱れ入る。その数は約一ダースばかり、ずらりと主人の前に並んだ。大抵は上衣(うわぎ)もちょっ着(き)もつけておらん。白シャツの腕をまくって、腕組をしたのがある。綿(めん)ネルの洗いざらしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の帆木綿(ほもめん)に黒い縁(ふち)をとって胸の真中に花文字を、同じ色に縫いつけた洒落者(しゃれもの)もある。いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波(たんば)の国は笹山から昨夜着し立てでござると云わぬばかりに、黒く逞(たくま)しく筋肉が発達している。中学などへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。漁師(りょうし)か船頭にしたら定めし国家のためになるだろうと思われるくらいである。彼等は申し合せたごとく、素足に股引(ももひき)を高くまくって、近火の手伝にでも行きそうな風体(ふうてい)に見える。彼等は主人の前にならんだぎり黙然(もくねん)として一言(いちごん)も発しない。主人も口を開(ひら)かない。しばらくの間双方共睨(にら)めくらをしているなかにちょっと殺気がある。
「貴様等はぬすっとうか」と主人は尋問した。大気 (だいきえん)である。奥歯で囓(か)み潰(つぶ)した癇癪玉(かんしゃくだま)が炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしく怒(いか)って見える。越後獅子(えちごじし)の鼻は人間が怒(おこ)った時の恰好(かっこう)を形(かた)どって作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐しく出来るものではない。