八 - 10
鈴木君はあいかわらず調子のいい男である。今日は金田の事などはおくびにも出さない、しきりに当り障(さわ)りのない世間話を面白そうにしている。
「君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」
「別にどこも何ともないさ」
「でも蒼(あお)いぜ、用心せんといかんよ。時候がわるいからね。よるは安眠が出来るかね」
「うん」
「何か心配でもありゃしないか、僕に出来る事なら何でもするぜ。遠慮なく云い給え」
「心配って、何を?」
「いえ、なければいいが、もしあればと云う事さ。心配が一番毒だからな。世の中は笑って面白く暮すのが得だよ。どうも君はあまり陰気過ぎるようだ」
「笑うのも毒だからな。無暗に笑うと死ぬ事があるぜ」
「冗談(じょうだん)云っちゃいけない。笑う門(かど)には福来(きた)るさ」
「昔(むか)し希臘(ギリシャ)にクリシッパスと云う哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬(ろば)が銀の丼(どんぶり)から無花果(いちじゅく)を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗(むやみ)に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「はははしかしそんなに留(と)め度(ど)もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜(てきぎ)に、――そうするといい心持ちだ」
鈴木君がしきりに主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、客来(きゃくらい)かと思うとそうでない。
「ちょっとボールが這入(はい)りましたから、取らして下さい」
下女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ廻る。鈴木は妙な顔をして何だいと聞く。
「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」
「裏の書生?裏に書生がいるのかい」
「落雲館と云う学校さ」
「ああそうか、学校か。随分騒々しいだろうね」
「騒々しいの何のって。碌々(ろくろく)勉強も出来やしない。僕が文部大臣なら早速閉鎖を命じてやる」
「ハハハ大分(だいぶ)怒(おこ)ったね。何か癪(しゃく)に障(さわ)る事でも有るのかい」
「あるのないのって、朝から晩まで癪に障り続けだ」
「そんなに癪に障るなら越せばいいじゃないか」
「誰が越すもんか、失敬千万な」
「僕に怒ったって仕方がない。なあに小供だあね、打(うっ)ちゃっておけばいいさ」
「君はよかろうが僕はよくない。昨日(きのう)は教師を呼びつけて談判してやった」
「それは面白かったね。恐れ入ったろう」
「うん」
この時また門口(かどぐち)をあけて「ちょっとボールが這入(はい)りましたから取らして下さい」と云う声がする。
「いや大分(だいぶ)来るじゃないか、またボールだぜ君」
「うん、表から来るように契約したんだ」
「なるほどそれであんなにくるんだね。そうーか、分った」
「何が分ったんだい」