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八 - 10
「なに、ボールを取りにくる源因がさ」

    「今日はこれで十六返目だ」

    「君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」

    「来ないようにするったって、来るから仕方がないさ」

    「仕方がないと云えばそれまでだが、そう頑固(がんこ)にしていないでもよかろう。人間は角(かど)があると世の中を転(ころ)がって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦(く)なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人は褒(ほ)めてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)どうせ、叶(かな)わないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩(はん)を及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損の草臥儲(くたびれもう)けだからね」

    「ご免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ廻って、取ってもいいですか」

    「そらまた来たぜ」と鈴木君は笑っている。

    「失敬な」と主人は真赤(まっか)になっている。

    鈴木君はもう大概訪問の意を果したと思ったから、それじゃ失敬ちと来(き)たまえと帰って行く。

    入れ代ってやって来たのが甘木(あまき)先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者は昔(むか)しから例が少ない、これは少々変だなと覚(さと)った時は逆上の峠(とうげ)はもう越している。主人の逆上は昨日(きのう)の大事件の際に最高度に達したのであるが、談判も竜頭蛇尾たるに係(かかわ)らず、どうかこうか始末がついたのでその晩書斎でつくづく考えて見ると少し変だと気が付いた。もっとも落雲館が変なのか、自分が変なのか疑(うたがい)を存する余地は充分あるが、何しろ変に違ない。いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中肝癪(かんしゃく)を起しつづけはちと変だと気が付いた。変であって見ればどうかしなければならん。どうするったって仕方がない、やはり医者の薬でも飲んで肝癪(かんしゃく)の源(みなもと)に賄賂(わいろ)でも使って慰撫(いぶ)するよりほかに道はない。こう覚(さと)ったから平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けて見ようと云う量見を起したのである。賢か愚か、その辺は別問題として、とにかく自分の逆上に気が付いただけは殊勝(しゅしょう)の志、奇特(きどく)の心得と云わなければならん。甘木先生は例のごとくにこにこと落ちつき払って、「どうです」と云う。医者は大抵どうですと云うに極(き)まってる。吾輩は「どうです」と云わない医者はどうも信用をおく気にならん。

    「先生どうも駄目ですよ」

    「え、何そんな事があるものですか」

    「一体医者の薬は利(き)くものでしょうか」

    甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の長者(ちょうじゃ)だから、別段激した様子もなく、

    「利かん事もないです」と穏(おだや)かに答えた。

    「私(わたし)の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」

    「決して、そんな事はない」

    「ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の
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