返回
朗读
暂停
+书签

视觉:
关灯
护眼
字体:
声音:
男声
女声
金风
玉露
学生
大叔
司仪
学者
素人
女主播
评书
语速:
1x
2x
3x
4x
5x

上一章 书架管理 下一页
九 - 13
    迷亭もここにおいてとうてい済度(さいど)すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹(へこ)ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢(とんちんかん)な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥(はる)かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目(めんぼく)を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑(けいべつ)して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。

    「ともかくもあした行くつもりかい」

    「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行く」

    「学校はどうする」

    「休むさ。学校なんか」と擲(たた)きつけるように云ったのは壮(さかん)なものだった。

    「えらい勢(いきおい)だね。休んでもいいのかい」

    「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣(きづかい)はない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。

    「君、行くのはいいが路を知ってるかい」

    「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。

    「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」

    「いくらでも恐れ入るがいい」

    「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原(よしわら)だよ」

    「何だ?」

    「吉原だよ」

    「あの遊廓のある吉原か?」

    「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君またからかいかける。

    主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡(しゅんじゅん)の体(てい)であったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行く」と入らざるところに力味(りきん)で見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。

    迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と云ったのみである。一波瀾(ひとはらん)を生じた刑事事件はこれで一先(ひとま)ず落着(らくちゃく)を告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁を弄(ろう)して日暮れ方、あまり遅くなると伯父に怒(おこ)られると云って帰って行った。

    迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は再び拱手(きょうしゅ)して下(しも)のように考え始めた。

    「自分が感服して、大(おおい)に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭の云う通り多少瘋癲的(ふうてんてき)系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎(れっき)とした二人の気狂(きちがい)の子分を有している。はなはだ危険である。滅多(めった)に近寄ると同系統内に引(ひ)き摺(ず)り込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の余(よ)、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事(てんどうこうへいこと)実名(じつみょう)立町老梅(たちまちろうばい)は純然たる狂人であって、現に
上一章 书架管理 下一页

首页 >吾輩は猫である简介 >吾輩は猫である目录 > 九 - 13