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七 - 6
    しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の中(うち)から消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。見ると紛(まぎ)れもなき苦沙弥先生である。主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに吾輩は少からず驚ろいた。これは正(まさ)しく熱湯の中(うち)に長時間のあいだ我慢をして浸(つか)っておったため逆上(ぎゃくじょう)したに相違ないと咄嗟(とっさ)の際に吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の所為(せい)なら咎(とが)むる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の胴間声(どうまごえ)を出したかを話せばすぐわかる。彼は取るにも足らぬ生意気(なまいき)書生を相手に大人気(おとなげ)もない喧嘩を始めたのである。「もっと下がれ、おれの小桶に湯が這入(はい)っていかん」と怒鳴るのは無論主人である。物は見ようでどうでもなるものだから、この怒号をただ逆上の結果とばかり判断する必要はない。万人のうちに一人くらいは高山彦九郎(たかやまひこくろう)が山賊を叱(しっ)したようだくらいに解釈してくれるかも知れん。当人自身もそのつもりでやった芝居かも分らんが、相手が山賊をもって自(みずか)らおらん以上は予期する結果は出て来ないに極(きま)っている。書生は後(うし)ろを振り返って「僕はもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは尋常の答で、ただその地を去らぬ事を示しただけが主人の思い通りにならんので、その態度と云い言語と云い、山賊として罵(ののし)り返すべきほどの事でもないのは、いかに逆上の気味の主人でも分っているはずだ。しかし主人の怒号は書生の席そのものが不平なのではない、先刻(さっき)からこの両人は少年に似合わず、いやに高慢ちきな、利(き)いた風の事ばかり併(なら)べていたので、始終それを聞かされた主人は、全くこの点に立腹したものと見える。だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ上がりはせん。今度は「何だ馬鹿野郎、人の桶(おけ)へ汚ない水をぴちゃぴちゃ跳(は)ねかす奴があるか」と喝(かっ)し去った。吾輩もこの小僧を少々心憎く思っていたから、この時心中にはちょっと快哉(かいさい)を呼んだが、学校教員たる主人の言動としては穏(おだや)かならぬ事と思うた。元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき殻(がら)見たようにかさかさしてしかもいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を超(こ)える時に、路の真中に当って大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。そこでハンニバルはこの大きな岩へ醋(す)をかけて火を焚(た)いて、柔かにしておいて、それから鋸(のこぎり)でこの大岩を蒲鉾(かまぼこ)のように切って滞(とどこお)りなく通行をしたそうだ。主人のごとくこんな利目(ききめ)のある薬湯へ煮(う)だるほど這入(はい)っても少しも功能のない男はやはり醋をかけて火炙(ひあぶ)りにするに限ると思う。しからずんば、こんな書生が何百人出て来て、何十年かかったって主人の頑固(がんこ)は癒(なお)りっこない。この湯槽(ゆぶね)に浮いているもの、この流しにごろごろしているものは文明の人間に必要な服装を脱ぎ棄てる化物の団体であるから、無論常規常道をもって律する訳にはいかん。何をしたって構わない。肺の所に胃が陣取って、和唐内が清和源氏になって、民さんが不信用でもよかろう。しかし一たび流しを出て板の
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